August 27, 2004

帝国の時代における民衆の力 アルンダーティ・ロイ (1)

アルンダーティ・ロイが8月16日にサンフランシスコのthe American Sociological Associationで行なった講演が、映像でみられるようになっています。→
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よい内容で、Znetにもスクリプトが掲載されているので、部分的に紹介しようと思います。
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帝国の時代におけるパブリック・パワー  
Copyright 2004 Arundhati Roy. For permission to reprint contact arnove@igc.org

わたしは「帝国の時代におけるパブリック・パワー」について話すように頼まれていました。 言われた通りにするという習慣はないのですが、さいわいなことに、それこそまさに今日ここでお話したいと思っているテーマでした。

言葉がずたずたに解体され、意味を抜き取られてしまっているようなときに、わたしたちはパブリック・パワー(民衆の力)という言葉をどのように理解したらよいのでしょう。 自由が占領を意味し、民主主義がネオリベラル資本主義を意味し、改革が抑圧を意味し、「権限の付与」とか「平和維持」というような言葉を聞けばぞっとするような時代です。さすれば「パブリック・パワー」という言葉もまた、使い手の望むままにどのような意味にもなるのでしょう。 「上腕二頭筋増強マシン」でもよし、「コミュニティ・パワー・シャワー」(「民衆の力の誇示」とも取れる)でもよいのです。 そういうことですから、わたしも自分なりに「バプリック・パワー」の意味するところを定義しなければならないでしょう──こちらの都合にあわせたかたちで。

インドでは、パブリックという語はいまやヒンディーの語彙になっています。 それは民衆を意味します。 ヒンディー語には、サルカール(sarkar)とパブリック(public)、すなわち政府と国民があります。 この用法がおのずと前提にしているのは、政府は「国民」とははっきり別のものだという想定です。 そのような区別がでてきたのは、インドにおける自由のための闘争が、壮大ではあったけれど、決して革命的なものではなかったという事実と関係しています。 インドのエリートは、イギリスの帝国主義者の後釜に、優雅に楽々と座ったのです。 極貧に喘ぐ基本的に封建的な社会が、近代的な国民国家として独立したのです。あれから57年たった今でさえも、完全に屈服させられた人々は政府を "mai-baap(扶養してくれる親)として頼みにしています。 もうすこしラディカルで、まだ信念を保っている人たちは、政府のことを "chor" だと見ています。すなわち泥棒、すべてをかっさらうひったくりです。いずれにしてもほとんどのインド人にとってサルカールはパブリックとはまったく別のものです。 けれども、インドの社会階層を上にのぼるにつれて、サルカールとパブリックの区別はぼやけてきます。 世界のどこでも同じですが、インドのエリートには自分たちを国家から分離することが難しいのです。 エリートは、国家のようにものごとを理解し、国家のように考え、国家のように話すのです。

でも合衆国では、サルカールとパブリックの区別は社会のずっと深いところまで浸透しています。 このことは、強靭な民主主義のしるしでもありえるのですが、残念ながら事情はもう少し複雑で、そんなに体裁のよいものではありません。なによりもまず、それはアメリカのサルカールが生み出し、企業メディアとハリウッドが紡ぎだす手の込んだパラノイアの仕掛けに関係しています。普通のアメリカ人が信じ込まされているのは、自分たちは国民として絶えず脅かされており、自分たちの政府だけが唯一の避難所であり保護者であるという妄想です。脅威が共産主義者でないというなら、アルカイーダです。 キューバでないというなら、ニカラグアです。 その結果、この世界で最強の国──比類のない武器保有量を誇り、はてしのない戦争を遂行し、遂行させ、歴史上でたたひとつ核爆弾を実際に使用した国──に住んでいるのは、影を見ても縮み上がるほど怯えた一般市民です。この国民の国とのつながりは、社会福祉や公共医療や雇用確保にょるものではなく、恐怖によるものです。

この人工的につくりだされた恐怖は、さらなる侵略行為の遂行に民衆の認可を獲得するために使われます。 そうして、自己充足的なヒステリーのスパイラルが進行し、アメリカ政府の超テクノカラー・テロ警戒警報によって段階付けられる──フクシア!ターコイズ!サーモンピンク!

外から見れば、合衆国におけるこのようなサルカールとパブリックの融合によって、アメリカ政府の行動とアメリカ国民を分けることが難しくなります。この混同が、世界中で反米気運をあおっているのです。そうすると今度はアメリカ政府と忠実なメディアがこの反米気運をとらえてそれを増幅する。例のきまり文句です ─「なぜかれらはわたしたちを嫌うのか? わたしたちの自由が嫌いなのだ」 . . . エトセトラ、エトセトラ。 これによってアメリカ国民のあいだに孤立感が深まり、サルカールとパブリックの抱擁をいっそう強めます。 赤頭巾ちゃんが狼のベッドで抱きしめてもらいたがっているようなものです。

国民の支持を集めるために外部の敵の脅威を利用するというのは昔からの陳腐な手口です。何世紀ものあいだ政治家たちはこの手を使って権力を掌握してきたのです。でも、普通の人々はこのくたびれた手口にうんざりしてなに違ったものを求めているということはないのでしょうか? 古いヒンディー語映画に、こういう歌がでてきます。yeh public hai, yeh sab jaanti hai(民衆は、なんでもお見通し)。 この歌が正しくて、政治家たちが間違っているとしたら素敵でしょう。

アメリカ政府が非合法にイラクを侵略する前の、ギャラップ・インターナショナルの世論調査では、ヨーロッパのどこの国でも一方的戦争への支持は11パーセント以下にとどまっていました。侵略の数週間前、2003年2月15日には、1千万人以上の人々が、北米も含むさまざまな大陸で反戦を訴えて行進しました。 それなのに、多くの民主主義とされる国々では、政府がそれでも戦争に走ったのです。

ここで問われるのは、「民主主義」はいまも民主的なのかということです?

民主主義政府はそれを選出した人々に対して説明責任をはたしているのでしょうか? そして重要なことですが、民主主義諸国の民衆はかれらのサルカールの行動に責任があるのでしょうか?

これをつきつめると、テロリズムとの戦争を支えるロジックはテロリズムを支えるロジックとまったく同じだということがわかります。 両方とも、普通の市民に彼らの政府の行動の代償を支払わせるのです。 アルカイーダはアメリカの民衆の生命をもって、彼らの政府がパレスチナやサウジアラビアやイラクやアフガニスタンで行なった行為をつぐなわせています。 アメリカ政府はアフガニスタンの民衆に何千人もの生命を持ってタリバンの行動を償わせ、イラクの民衆に何十万もの生命をもってサダム・フセインの行動を償わせた。

決定的な相違は、誰も本当にアルカイーダやタリバンやサダム・フセインを選挙で選んだわけではないということです。 けれどもアメリカの大統領は選挙で選ばれました(・・・まあ、ある意味で、ですが)。 イタリア、スペインと英連合王国の首相は選出されています。 ということは、これらの国の市民は自分たちの政府の行動に対して、イラク人がサダム・フセインの行動に対して、アフガニスタン人がタリバンの行動に対して負っているよりも重い責任があるということになるのでしょうか。

どれが「正義の戦争」であり、どれがそうではないのかを決めるのは、誰の神さまなのでしょう 先代ジョージ・ブッシュは、かつて言いました。「わたしは合衆国のしたことを詫びるつもりはない。 事実など、どうでもかまわない。」 世界最強の国の大統領が事実などどうでもかまわないというのであれば、わたしたちは少なくとも帝国の時代がきたことを確実に悟ることができます。

では帝国の時代にパブリック・パワーはなにを意味するのでしょう? いったいそれになにか意味があるのでしょうか? ほんとうにそんなものが存在するのでしょうか? (...to be continued)