August 29, 2004

帝国の時代における民衆の力 アルンダーティ・ロイ (2)

この民主主義とされる時代には、従来の政治思想によればパブリックパワーは投票を通して行使されることになっています。 今年は世界の何十もの国々で選挙が予定されています。 そのほとんどのところでは(すべてではありません)、投票結果に従った政府が成立するはずです。 けれども、それは民衆が望んでいる政府なのでしょうか?

インドでは今年、選挙によってヒンドゥ・ナショナリストたちが政権を追われました。 わたしたちはこれを祝いながらも、核爆弾、ネオリベラリズム、民営化、検閲、巨大ダム建設など、ヒンドゥ至上主義を除くすべての主要問題に関して、コングレス党(国民議会派)とインド人民党(BJP)のあいだに大きな思想的相違はないことを知ってます。 文化的にも政治的にも極右が台頭する基盤を整えたのは、コングレス党が支配してきた50年の遺産であることをわたしたちは知っています。 企業のグローバリゼーションに最初にインド市場を開放したのも同じくコングレス党でした。

コングレス党は選挙運動で、従来の経済政策の一部を再考する用意があることを示しました。 何百万人ものインドの最貧層は選挙で投票するために大挙してくり出しました。 インドの素晴らしい民主主義の光景がテレビで生放送されました。貧しい農民、老人、弱者、ヴェールをまとい美しい銀の宝石をつけた女たちが、象やラクダや牛車に乗って投票所へと古風な旅をするところが映されました。 あらゆるインドの専門家や世論調査員の予言に反して、コングレス党が他のどの政党よりも多くの票を獲得しました。 インドの共産主義諸政党は、それぞれ結党以来の最大得票率を記録しました。 インドの貧民層は明らかにネオリベラリズムの経済「改革」とファシズムの台頭に反対する投票をしていたのです。 選挙結果の集計がなされるやいなや、企業メディアはまるで低ギャラの映画エクストラを扱うようにさっさかたずけてしまいました。 テレビ各局は分割スクリーンを採用しました。 画面の半分には、あたふたと連立政権がまとめられているあいだ、コングレス党の指導者ソニア・ガンジーの屋敷の外の混乱した状況が映されました。

もう半分には、ボンベイ株式取引所の外で興奮する証券業者の姿が映っていました。かれらはコングレス党がその選挙公約をほんとうに実行し、選挙で与えられた権限を行使するのではないかと考えてパニックを起こしていたのです。 Sensex 株価指数は乱高下していました。 みずからの株価も暴落していたメディア企業は、株式市場の下落をまるでパキスタンが大陸間弾道ミサイルをニューデリーに向けて発射されたかのように報道しました。

新政府が正式に発足する前から、コングレス党の幹部たちは声明を出して、公共事業の民営化政策が継続することを確約し、投資家やメディアを安心させました。 一方、野党となったインド人民党は、シニカルでもコミカルでもありますが、今や外国からの直接投資とインド市場をこれ以上開放することに反対し始めました。

これが選挙制民主主義の、見かけだけの発展的弁証法です。 インドの貧困層はといえば、いったん投票さえしてくれれば、あとはさっさと家に帰ることだけが期待されていました。 政策は、彼らの意思にかかわらず、決定されるのです。

では合衆国の選挙はどうでしょう? 合衆国の投票者には真の選択が与えられているのでしょうか。確かに、もしジョン・ケリーが大統領になれば、ホワイトハウスに巣くう石油業界の大物やキリスト教原理主義者たちの一部は入れ替わることになるでしょう。 ディック・チェニーやドナルド・ラムズフェルドやジョン・アッシュクロフトが去り、彼らの露骨な蛮行が終わるのを見ても残念がる人は少ないでしょう。 けれども真の問題は、新政権のもとでも彼らの政策は継続するということです。 ブッシュなしのブッシズムが継続するのです。

真に権力を握る地位──銀行家やCEOたち──は選挙の洗礼を受けることはありません(・・・どのみち、彼らは両方の陣営に資金供給しています)。
残念ながら合衆国の選挙の意義は、一種の性格コンテストのようなものへと後退しています。 誰の方が上手に帝国を監督するかをめぐる、口喧嘩にすぎません。 ジョン・ケリーも帝国の理念を熱烈に信奉することにかけてはジョージ・ブッシュにひけをとりません。 アメリカの政治システムは、軍=産業=企業の権力構造の天賦の善良さを疑う者はだれひとり権力への門をくぐることを許さぬよう、慎重に作りあげられているのです。

そんなわけですから驚くこともありませんが、今回の選挙で争うのは2人のエール大学出身者で、どちらもスカル・アンド・ボーンズという秘密結社のメンバーであり、どちらも百万長者、どちらもソルジャー・ソルジャーごっこをし、どちらも戦争気運を盛り上げて、テロ戦争を上手に率いるのは誰かをめぐってほとんど子供じみた議論をしているというありさまです。 先輩のビル・クリントン大統領と同じように、ケリーも合衆国の経済的、軍事的な浸透を世界中に拡大する政策を続行するでしょう。

彼は、たとえイラクは大量破壊兵器を持っていないと知っていたとしても、ブッシュにイラクと開戦する権限を与えることに賛成票を投じただろうと発言しています。 彼はイラクへの派兵を増強することを公約しています。 彼は最近、イスラエルとアリエル・シャロンに対するブッシュの政策を100パーセント支援すると言いました。 ブッシュの減税策の98%は継続すると言いました。 そんなわけで、金切り声で侮辱を応酬する背後には、ほとんど絶対的な意見一致があるのです。 これではまるで、アメリカ人はたとえケリーに投票しても、与えられるのはブッシュだというようなものです。 大統領ジョン・ケブッシュ、あるいはジョージ・ベリー。

それは真の選択ではありません。表面的な選択です。洗剤のブランドを選ぶように。「アイヴォリースノー」を買っても「タイド」を買っても、どちらもProctor&Gamble社の製品なのです。 そこにニュアンスの違いがないといっているわけではありません。コングレス党とインド人民党 、ニューレイバー(新労働党)とトーリー(保守党)、民主党と共和党が同じだとは言いません。 もちろん、違いはあります。 「アイヴォリースノー」と「タイド」だってそうです。 「タイド」は酵素配合だし、「アイヴォリースノー」はおしゃれ着洗い用です。

インドでは、はっきりファシストの政党(人民党) と、陰険にひとつのコミュニティを別のコミュニティにけしかける政党(コングレス党)という違いがあります。後者によってコミュナリズムの種がまかれ、前者がそれを刈り取るという仕組みです。 今年のアメリカ大統領候補のあいだには、I.Q. レベルや無慈悲のレベルに差があります。 合衆国の反戦運動は、イラク侵略へ導いた嘘と金の力を見事に暴き出しました。プロパガンダや脅迫にもかかわらず、すばらしい成果をあげた彼らには、心から拍手を贈りたいと思います。

アメリカの民衆に対してだけでなく、世界全体に対する奉仕でした。 けれども今、もしアメリカの反戦運動がケリーの選挙運動を公然と支持するならば、彼らは「気配りのある」帝国主義という彼の是認しているのだと世界の人々は受け取るでしょう。 国連とヨーロッパ諸国の支持さえ獲得すれば、アメリカの帝国主義は好ましいものになるのでしょうか。 もし国連が、インドやパキスタンの兵士に対しイラクに行ってアメリカ兵の代わりに殺し、殺されるよう依頼するとすれば、その方が好ましいというのでしょうか。 イラク人が期待できる唯一の変化は、フランスやドイツやロシアの企業もイラク占領の戦利品の分け前にあずかるようになることだけなのでしょうか。

わたしたち属国の住民にとって、実際にこれは改善なのか、悪化なのか。 世界にとって、利口な皇帝と愚鈍な皇帝のどちらがよいというのでしょう。 これしかわたしたちの選択肢はないのでしょうか。 こういうことは不愉快で野蛮な質問だということはわかっています。でも、それは問われねばならないことです。
真実を述べれば、選挙民主主義はシニカルなごまかしの手続きになってしまったのです。 今日では、この制度はきわめて縮小した政治空間しか提供しません。 この政治空間が真の選択肢を与えていると考えるのは、無邪気というものでしょう。 現代民主主義の危機はきわめて深刻です。

世界を舞台に、主権国家の政府の支配権を超えて貿易と金融の国際機構が監視する多国間の法や合意の複雑なシステムは、植民地化政策も顔負けするような横奪のしくみを揺るぎないものにしてきました。 このシステムは第三諸国の国内市場に大量の投機資本──ホットマネー──が無制限に参入し、撤退することを許し、それによってこれらの国々の経済政策を実質的に支配することを可能にしています。 資本の逃避という脅しをてこに、国際資本はこれらの国々の経済をどんどん侵食していきます。 巨大な多国籍企業がこれらの国々の不可欠なインフラや天然資源の支配権を握り、鉱産物も、水も、電気も支配されます。 世界貿易機構、世界銀行、国際通貨基金に加え、アジア開発銀行などの金融機関が、事実上これらの国々の経済政策と議会立法を策定しているのです。 ごう慢と無慈悲という最悪の組合わせによって、これらの機関は、相互に依存した複雑な歴史を持つ壊れやすい社会に大鉈をふるい、荒廃させます。

こんなことが「改革」の旗のものに進められるのです。 このような「改革」の結果、アフリカ、アジア、ラテンアメリカで、何千という零細企業や産業が閉鎖され、何百万という労働者や農民が仕事や土地を失いました。 ロンドンのスペクテータ紙は、「わたしたちは人類の歴史で最も幸せで、健康で、平和な時代に住んでいる」と断言しています。 何十億の人々が首をかしげるでしょう──「わたしたち」って誰のことだ? その男はどこに住んでいるのか? 彼のクリスチャン名は何だろう?

理解しておきたいのは、現代の民主主義は国民国家によって宗教に近いような是認を得ていると考えてよいということです。 けれども企業のグローバリゼーションはそうではありません。 流動資本もそうではありません。 たしかに資本は使用人たちの反乱を鎮圧するために国民国家の強制力を必要とするのですが、個々の国には企業のグローバリゼーションに反対することができないようになっているのです。

急進的な変革は政府間の交渉で決めることはできません。民衆の手によってのみ実現できるのです。 民衆によって。 ネイションの垣根を超えて手をつなぐことができる民衆です。

ですから、「帝国の時代におけるパブリック・パワー」を語るとき、僭越に響かなければよいのですが、論じる価値のある唯一のものは異議を唱える民衆の力だと想定してもよいだろうと思います。 帝国という概念そのものに異議を持つ民衆です。 帝国を支え、帝国に奉仕する現行の権力(国際的、全国的、地域的な諸政府)や機構と対決する民衆です。

帝国に抵抗したい人々には、どのような抗議手段があるのでしょうか。 ここで言う抵抗とは、単に異議を表明することだけでなく、実際に変革を迫ることも含みます。 帝国は広範囲にわたる召集リストを持っています。 さまざまな市場をこじ開けるために、それぞれにふさわしい武器を使い分けるのです。 小切手帖と巡航ミサイルというような。

多くの国々の貧しい人々にとっては、帝国はいつでも巡航ミサイルや戦車のかたちをとって現れるわけではありません。イラクやアフガニスタンやヴェトナムではそうでしたが。 でもそれはむしろ、きわめて局地的な現象として具現化します──職を失い、 高額すぎる電気使用料の請求書を送られ、水道供給が止められ、家や土地から立ち退かされる。 こうしたことを監督しているのが、国家の抑圧機構──警察や軍や司法当局です。 貧者には昔からおなじみの、容赦ない貧困化の進展なのです。 帝国の働きは、すでに存在する不平等をいっそう拡大し、強化することです。

ほんの最近まで、自分たちは帝国による征服の犠牲者だと民衆が悟るのは難しいこともありました。 でも今では、局地闘争がみずからの役割を明白に見通すようになっています。 いかに尊大に響こうが、事実として、かれらは帝国に対して、自分たちなりの、さまざまなかたちで立ち向かっているのです。 それぞれのやりかたで、イラクでも、南アフリカでも、インドでも、アルゼンチンでも。同じことはまたヨーロッパやアメリカの街頭でも行なわれています。
大衆的な抵抗運動、個々のアクティヴィストやジャーナリスト、アーティストや映画作家が、帝国から壮麗な衣装をはぎとるために協力しています。 かれらは点を結んで、キャッシュフロー・チャートとと役員会議の演説を、現実の人々と現実の窮乏についての現実の話へと変えました。 ネオリベラリズムのプロジェクトがどのように人々から家を奪い、土地を奪い、仕事を奪い、自由を奪い、尊厳を奪ったかを見せてくれました。 かれらは無形のものを有形に変えたのです。 かつては無形(in-CORP-o-real=非・企業の現実)のように思えた敵が、いまや実体のあるもの(CORP-o-real=企業の現実)になったのです。

これは巨大な勝利です。 それが作り出されたのは、いろいろな戦略を持つ、異なった政治団体が協力したおかげです。 彼らはみな自分たちの怒りの対象、アクティヴズムや不屈の信念の対象が同じものであることを認識しました。 これが真のグローバリゼーションのはじまりでした。 反体制のグローバリゼーションです。

おおざっぱに言って、第三世界の国々の大衆的抵抗運動には今日2つの種類があります。 ブラジルの土地を持たない人々の運動、インドのダム反対運動、メキシコのザパティスタ、南アフリカの反民営化フォーラムをはじめ何百もの運動は、主権を持った自らの政府と闘っています。彼らの政府はネオリベラルのプロジェクトを推進する代理人になってしまったのです。 これらのほとんどは急進的な闘争で、自分たちの社会を「開発」するために選ばれたモデルや構造の変革を目指しています。

もう一つは、20世紀に帝国主義列強によって独断的に境界線や断層線を引かれた正当性の怪しい領土における正式で野蛮な新帝国主義の占領と闘う急進的な闘争です。 パレスチナ、チベット、チェチェン、カシミールやインド北東部の諸州では、住民たちが自決権を要求して戦っています。 これらの闘争の多くは、はじまったときには急進的で、革命でさえあったのですが、彼らに向けられた野蛮な弾圧のおかげで、保守的で、退行的とさえ言える空間に押し込められていることが多いのです。そこで彼らが用いる暴力的な戦略と宗教・文化的ナショナリズムの言語は、彼らが追い払いたがっている国家が用いるものとそっくり同じなのです。

これらの争いに兵卒として参加している人々の多くは、南アフリカでアパルトヘイトと戦った人たちのように、いったん公然とした占領に打ち勝つことができると、今度は別の戦いが重くのしかかってくることに気づくでしょう──人目につかない経済的な植民地化です。 その一方で、金持ちと貧民の断絶がますます広がり、世界の資源管理をめぐる争いが激化するにつれ、 正規の軍事侵略を通じた経済の植民地化が復活しつつあります。

今日のイラクは、このプロセスの悲惨な例証です。 不法な侵略。 解放という名目の残忍な占領。 国の富と資源の破廉恥な横奪を占領に協力する企業による許すために法律が書き変えられ、いまや現地人による「イラク政府」という茶番が登場する。 このような理由から、イラクにおける合衆国の占領への抵抗を、テロリストだとか、反乱だとか、サダム・フセイン支持者が首謀者だとして非難することは、ばかげています。 もし合衆国が侵略されて、占拠されたとして、それを解放しようと奮闘するものは誰でも、テロリストとか、暴徒とか、あるいはブッシュ派などと呼ばれるものになるのでしょうか。 イラクのレジスタンスは帝国との戦いの最前線で戦っているのです。 それゆえ、彼らの戦いはわたしたちの戦いなのです。

たいていの抵抗運動と同様に、イラクのそれも、さまざまな派閥の雑多な寄せ集めです。 旧バース党員、リベラル派、イスラミスト、アメリカに愛想をつかしたかつての協力者、共産主義者などです。 もちろん、そこには日和見主義やローカルな対立関係、民衆扇動、犯罪などが渦巻いています。 けれども、もし清純な運動しか支援しないというのであれば、どんな抵抗運動もわたしたちの基準には合格しないでしょう。

べつに、抵抗運動を決して批判してはいけないといっているわけではありません。 その多くは民主主義の欠如、「指導者」の偶像化、透明性のなさ、展望や方向性のなさという問題に苦しんでいます。 けれども肝心なのは、彼らが中傷や弾圧や資源の欠乏に苦しんでいるということです。

イラクの抵抗運動に、いかにして世俗的で、フェミニストで、民主的で、非暴力の闘争を遂行すべきかを指示するよりも先に、わたしたちの側の抵抗を強化してアメリカ政府とその同盟国の政府に対しイラクからの撤退を迫るように努力すべきでしょう。