August 30, 2004

帝国の時代における民衆の力 アルンダーティ・ロイ (4)

ここから、本日お話する三番目の脅威が浮上します。それは、抵抗運動と次第に抑圧を強める国家との実際の対決の恐ろしい性格です。 民衆の力と帝国の代理人の対決です。

民衆の抵抗が象徴的な行為から少しでも脅威をほのめかすものに発展する気配を見せたとたんに、容赦ない弾圧措置が取られます。 シアトルで、マイアミで、イェーテボリで、ジェノアで、わたしたちはデモンストレーションに何が起こったかを見てきました。 合衆国には愛国法があり、これを下敷きにしたテロ取締法が世界中の政府によってつくられました。 自由を守るという名目のもとに自由が制限されています。 いったんわたしたちが自由を引き渡してしまえば、それを取り戻すためには革命が必要になるでしょう。

一部の政府は、自由を制限しておきながら善良に見せかけるという経験を積んでいます。 インド政府はこのゲームの達人で、いちはやく先例を示しました。 ここ数年のあいだに、インド政府は多大な数の法律をつくり、ほとんど誰であろうとテロリスト、反政府活動家、過激派と呼ぶことができるようになっています。 インドには軍隊特別権限法、公安法、特別地域保安法、暴力団法、テロリストおよび危険地域法(この法律は形式的には失効しましたが、それに基づいて裁かれている人々はまだいます)、そして最新のPOTA(テロリスト予知法)など、反体制という病気に効く抗生物質が広範にとり揃えられています。 この他にも、法廷判決によって実質的に言論の自由や政府職員のスト権、生存権を抑制するといったような様々な手段がとられています。 インドでは裁判所がわたしたちの生活を隅々まで綿密に管理しはじめました。 そして裁判所を批判することは犯罪です。

テロ対策の先鞭をつけたという点に戻ると、この10年間で、警察や治安部隊によって殺された人々の数は何万人にものぼっています。 アンドラプラデシュ州(インドにおける企業グローバリゼーションのアイドル)では、毎年平均しておよそ200人の「急進派」が「遭遇」と呼ばれる状況で殺されています。 ボンベイ警察は、「撃ち合い」で何人の「ごろつき」たちを殺したかを自慢する。 カシミールはほとんど戦争状態で、推定80,000人が1989年以降に殺されています。 何千人もの人々が「姿を消し」ました。 北東の諸州でも状況は似たようなものです。 近年、インド警察は武装していない人々に発砲するようになりました。たいていはダリット(不可触賎民)や アディヴァシ(先住民)たちです。 警察がよく使う手口は、彼らを殺しておいて、あとからテロリストと呼ぶことです。 けれども、インドだけがそうなのではありません。 同じようなことが、ボリヴィアでもチリでも、南アフリカでも起こりました。 ネオリベラリズムの時代には、貧困は犯罪であり、そのことに抗議することが次第にテロリズムと定義されるようになってきているのです。

インドで、 POTA (Prevention of Terrorism Act テロ防止法)はしばしばテロ製造法(Production of Terrorism Act)ともじられています。 これはなんでもありの融通の利く法律で、アルカイーダの工作員から不満を持つバスの運転手まで、およそ誰にでもあてはめることができます。 すべてのテロ対策法規と同じように、POTA の特質は、それが政府の望むままに何にでもなるということです。 2002年グジャラートの国家が幇助した大迫害事件では、推定2,000人のムスリムがヒンドゥ教徒の暴徒によって惨殺されました。150,000人が家を追われ、287人が POTA に基づいて告発されました。 このうち、286人はムスリム、一人はシーク教徒でした。

POTA は警察に拘留されているあいだに引き出された自白も裁判の証拠として採用することを許しています。 その結果、調査に代わって拷問が用いられる傾向がえています。 南アジア人権記録センターSouth Asia Human Rights Documentation Centerは、拷問や拘留中に起こった殺人の件数ではインドが世界一多いと報告しています。 政府記録によれば、2002年だけでも1,307人が拘置所で死亡しています。数カ月前、わたしはPOTA についての人民法廷のメンバーを努めました。 2日にわたって、わたしたちは自分たちの素晴らしい民主主義に起きていることについての恐ろしい証言を聞きました。 まさになんでもありでした──尿を飲まされたり、衣服をはがれたり、屈辱を受けたり、電気ショックを受けたり、火のついたタバコを押し付けられたり、鉄棒を肛門に詰め込まれたり、殴るけるで殺されたり。

新政府は POTA を撤廃すると公約しています。 その公約が、別の名前で似たような法律を成立させる前に実現されるならば驚きです。 POTAでなければ、MOTAでもなんでもいいのです。 非暴力反体制活動の手段がすべて閉ざされ、人権の剥奪に抗議する人々がすべてテロリストと呼ばれるような時代ですから、国土の大きな部分が武力闘争を信じる人々によって侵略され、おおむね国家の制御のおよばないところになっているとしても、そんなに驚くことではないでしょう。カシミール、東北の諸州、マドヤプラデシュの大部分、チャティスガール、ジャルカンド、アンドラプラデシなどがそうです。 これらの地域の一般住民は、国家と武装集団の板ばさみになっています。カシミールでは、常時3,000人から4,000人の武装集団が活動しているとインド軍は推定しています。 それらをコントロールするために、インド政府はおよそ500,000人の兵士を配置しています。 明らかに、軍が管理しようとしているのは武装集団だけではありません。屈辱を味わい不満をもつ住民全体がインド軍を占領者だと考えています。

軍隊特別権限法は、陸軍の将校だけでなく、下級将校や下士官たちまでもが、公安を乱す嫌疑のある者に武力を行使し、殺すことまで認めているのです。 この法律がはじめて適用されたのは1958年、マニプル州の少数の地区に対してでした。 今日では、東北部とカシミール地方のほとんどすべてに適用されています。 拷問や疾走、拘禁中の死亡、レイプ、治安部隊による見せしめ処刑などの記録は、胸が悪くなるようなものでした。

インドの中心地アンドラプラデシでは戦闘的なマルクス・レーニン主義の人民戦争団──長年過激な武力闘争を行なっており、アンドラプラデシ警察のでっちあげ「遭遇」の主な標的となっています──が、ワランガル市で2004年7月28日に最初の公開ミーティングを開催しました。 何十万もの人々がそこに出席しました。 POTAによれば、彼らはすべてテロリストとみなされます。 彼らはみなインドのグアンタナモベイに放り込まれることになるのでしょうか。 東北地方とカシミール渓谷の全体が動乱におちいっています。 これらの何百万という人々に政府は何をするつもりなのでしょう。 今日の世界では抵抗の戦略を議論するよりもずっと重大なことが、まったく議論がされていません。 おまけに、戦略の選択はすべて民衆の手に握られているわけではありません。 それもまたサルカールの手中にあるのです。

アメリカがイラクを侵略し、占領するのにこれほど圧倒的な武力を投入しているとき、抵抗が従来型の軍事闘争であると考えてよいのでしょうか (もちろん、たとえそれが従来型のものであったとしても、どうせテロリスト呼ばわりされるでしょう) 奇妙なことに、アメリカ政府の兵器保有量と無敵の空軍力と爆撃力は、テロリズムという反応をほとんど避けられないものにしています。 民衆は富と力の不足を、隠密な手法と戦略でおぎなうでしょう。

この不穏で絶望的な時代には、政府があらゆる手段を用いて非暴力の抵抗に敬意を示さなければ、その怠慢によって暴力に走る人々を優位につけることになります。 政府が非暴力の反対によって変りうることを示せなければ、いくらテロリズムを非難しても信用されません。 ところが、非暴力の抵抗運動は逆に鎮圧されています。 大衆的な政治動員や組織はどれもこれも、金で片をつけるか、潰すか、まったく無視するかされています。

一方、政府と企業メディア、また忘れてならない映画産業は、戦争とテロリズムに対して、時間も、関心も、技術も、研究も、称賛も、惜しむことなく注いでいます。 暴力が神聖化されているのです。 これが送るメッセージは、深く憂慮される危険なものです──民衆の不満をぶちまける手段を求めているのなら、暴力のほうが非暴力よりも効果的ですよ。

金持ちと貧乏人のあいだの断絶が拡大し、巨大な資本主義マシンに供給するために世界中の資源を着服し、支配する必要が一段と切迫してくるにつれ、社会の動揺は激しくなる一方です。 帝国の裏側にいるわたしのような者にとっては、屈辱は耐えがたいものになっています。 合衆国によって殺されたイラクの子供たちひとりひとりが、わたしたちの子供でした。 アブグレイブで拷問にかけられた囚人たちのひとりひとりが、わたしたちの仲間でした。 彼れらの絶叫のひとつひとつが、わたしたちのものでした。 かれらが辱められたとき、わたしたちが辱められたのです。 イラクで戦っているアメリカの兵士たち──たいていは小さな町や都市貧民街からの志願兵たちです──もイラク人と変らぬほどに、同一のすさまじいプロセスの犠牲者なのです。このプロセスによって、彼らは決して自分たちのものにはならない勝利のために死ぬことを求められているのです。

企業の世界の役人たち、CEO、銀行家、政治家、裁判官、将軍たちが高いところからわたしたちを見下して、厳しく首を振るのです。 「他に道はない」と彼らは言います。 「戦争の犬たちを解き放とう」。

そうすると、アフガニスタンの廃墟から、イラクやチェチェンの瓦礫の中から、占領されたパレスチナの街頭やカシミールの山々のあいだから、コロンビアの丘と平原から、アンドラプラデシやアッサムの森林から、ぞっとするような返答が返ってきます。「テロリズムの他に道はない」。 テロリズム。 武力闘争。 反乱。 好きなようにそれを呼べばよいでしょう。

テロリズムは、犠牲者にとっても加害者にとっても、邪悪でおぞましい、人間らしさを奪うものです。 けれども、戦争だって同じです。 テロリズムは戦争の民営化であると言えるでしょう。 テロリストは戦争を自由市場で売り歩く人たちなのです。 この人たちは国家が暴力の合法的な使用についての専売権を持っているとは信じないのです。 人間の社会は、ひどい場所になりつつあります

もちろん、テロリズムにはそれに代わる他の道があります。 それは正義と呼ばれるものです。 どれほど大量の核兵器も、フルスペクトル・ドミナンス[アメリカ統合参謀本部の「ジョイント・ヴィジョン2020」に示されている将来の軍事構想。どのようなレベルの軍事作戦においても、米軍は単独または同盟軍と共に絶対的な優位を保ち、どのような敵も打ち負かす能力を持つことが目標→ここ]も、デイジーカッター(燃料気化爆弾)[通常兵器中で最大の破壊力を持つ]も、見せかけだけの統治評議会も、ロヤジルガ(国民大会議)も、正義を犠牲にして平和を買うことはできないということを認識すべき時がきています。
一部の人々の覇権と優越への強い欲望に対して、他の者たちの正義と尊厳へのあこがれが、これまで以上の強烈さで対抗することでしょう。 この戦いがどんなかたちをとるのか、美しいものになるのか血みどろのものになるのかは、わたしたちにかかっています。

(おしまい)